スペイン、イラン、日本……私の旅は刺激的でした!
私の名前は日向アミールといいます。著者の名前はそれほど重要ではありませんが、このメッセージを書いている私がどんな人物か知ることが、あなたにとって、この本を読んでくださる方にとっては、もしかしたら価値があることかもしれません。この話は様々な形で語ることができます。これはそのうちの一つです。
スペイン、イラン、日本。ごく幼いころから私は、それぞれにかけ離れた土地と文化に接してきました。それぞれの土地と文化の中で、まったく異なる親族と知人たちに育てられました。
私の幼少期と思春期は、旅と、変化に富む経験に彩られています。10歳のときには、イランからスペインまで、たったひとりで空の旅をしたことを覚えています。
ここにいる意味は何か。この宇宙と私の関係は何か。もし私が死ぬとしたら、それはまだ遠い先のことだとしても、なぜ私はここにいて、いまこれについて考えているのか。
3歳から5歳のとき、私は自分がいわゆる普通の子どもでないことに気づきました。普通であることは私にとって幸せではないということも。眠りにつく前に、私はこれらのことを熱心に考えました。私は無限のスペースにいながら、頭と心はその果てしないスペースを把握することができません。そのことを考えると、自分自身がどんどん小さくなっていき、ある瞬間までくると、心はブロックされて、深い眠りに落ちるのでした。
これは私の子ども時代を通して繰り返されました。幼少期の私の心に内なる自由とスペースをもたらした唯一のものは、何にも属していないという感覚でした。私は自分がいる場所に属しているという感覚はまったくありませんでした。
ベネズエラで生まれたスペイン人の母と、イラン人の父とともに、私は幼少期を過ごしました。私の子ども時代は、この世界で多くの人々が通過するのと同じような経験をしました。たとえば、風変わりで、おかしくも痛みをともなう、苦しみと喜びの経験。私は人生の一部分は両親とともに、その他の大部分を祖父母とともに、また、ときには離れた親族とともに過ごし、成長しました。私の人生における成熟への道のりは、少なくともエキサイティングであったといえるでしょう。
幼少期と思春期のうち、およそ二年の月日をイランで過ごしました。最初の滞在では、恐ろしい光景を見ました。1980年代に続いたイラン・イラク戦争で、戦争がこの国にもたらした傷跡です。
そのころの私はまだ、まったくといっていいほど理解していませんでした。すべての宗教的な見世物が実際の宗教的な精神とは関係ないということに。本当の宗教的な精神というのは、幸せの無限の源にふれるために必要なすべてのエネルギーを集める助けになります。
13歳のとき、もう一度イランに戻り、一年以上滞在しました。私が生まれ育ったスペインとはまったく異なる世界で、気候も食べ物も私にとっては過酷なものであり、辛い時期を過ごしました。とりわけ、イランの宗教的な文化は、息のつまるような経験でした。
そこで私は初めて観察することができました。いかに脳は変化するか。全員にほとんど同じことを考えさせ、表現させるという、宗教からの押しつけによる教義によって、いかに心は縮んでしまうか。そして、人々は何か異なるものを熱望し、何日も乾いた口に滴る一滴の水のように、東洋の世界を見ているということも知りました。私の活力と精神力は日に日に打ち砕かれていき、そのような悪夢から抜け出したいと、昼夜を通して継続的に夢見るようになりました。そしてあるとき、両親とそこで暮らし続けるという選択をすると、その夢は達成不可能であることに気づきました。
私はそのとき、組織化した宗教によって統制される社会の抑圧を観察し、経験しました。そのような環境がいかに子どもの心のスペースを小さく小さくしてしまうか。希望も見えず、物質的なものに固執することに唯一意味があるという感覚も観察し、経験することができました。そのときの私の希望の一部は、自由を表現できる子どもとして、私をあのころに戻してくれる場所、私が子ども時代の多くを過ごした場所、すなわちスペインに戻ることでした。祖父の助けによって、私はイラン滞在二年目にスペインに戻ることができました。
幼少期から、とくに思春期にかけて、私はスペインにいながら、中国、日本、武道の順に魅了されていきました。可能な限り知らない世界に、私に特別な感覚をくれる世界に興味を持ちはじめました。何年もかけて、その興味は特に日本に傾いていきました。そしてついに日本の光景が夢に現れるまでになりました。ある日、祖母の本棚に一冊の本を見つけました。それは、祖母のコレクションの一部として保管されていた本でした。その本の中に鎌倉大仏の写真を見つけたとき、鳥肌が立ったことを覚えています。
そのとき、私の心は自分を他の人と違うものにしてくれる何かを探していました。そのころから、日本は、私の中で理想的な国として考えるようになりました。二度目のイラン滞在から戻った私は、スペインに住みながら祖母とヨーロッパを旅し、その後、日出ずる国に初めて出会いました。一九九八年、十四歳のときに初めて日本を訪れました。その旅行から戻ったときにはすでに、私の心は決まっていました。いつか日本に住もう。日本で暮らしながら、武道の練習をしよう。そして、それはついに夢の中にも現れました。夢の中で私は日本にいて、誰か「とても特別な人物」と自然の中で暮らしていました。
思春期の終わりごろに、武道の稽古を始めました。その中でも特に合気道は、日本の真髄や価値観がうまくまとめられた武道だと感じました。それは私の人生において、身体的にだけではなく精神的にも、大きな影響をもたらすものでした。私は合気道の稽古に完全に没頭していました。合気道を学んでいくうちに、気づいたことがありました。合気道は日本の武道であり、真髄であるとともに、宇宙の精神として表現される「宇宙のリズムと調和すること、ひとつになること」でもあります。そしてその精神は、それぞれの国や国旗に属するのではなく、完全な秩序を求める完全な人間になることでもあります。これは私の人生の理解の仕方において、完全に調和するものでした。
大学の頃、私は日本を再び訪れ、日本文化について深く探求しました。言葉も少し覚え、漫画のストーリーやアニメ、様々な大衆文化や若者文化にも非常に興味を持ちました。この旅は、日出ずる国に住む準備として決定的なものになりました。
同じ頃に、クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurt)の存在を初めて知りました。彼の本を読み、映像を見たことで、私の人生は変わりました。それは私を内面的に変え、昼も夜もこの男が言おうとしていることについてもっと知りたいという私の渇望はおさまりませんでした。彼の言葉を聞き、彼の書いたものを読んだとき、彼の言葉は、ごく幼いころから私の心のなかに言葉のない状態のままあったものを言葉にしてくれたと感じました。それは新しい世界の発見であり、そこに近づくことを意味しました。そのときまで、その世界を理解することはできずにいました。なぜならすべての人と同じように、子ども時代や思春期などを通じて影響を受けるあらゆる条件付けが私にもあったからです。
しかしこの乾きは、そのときまで私の心の中に積もっていたリミットを外してくれました。以前には考えもしなかったことや、じっくり向き合ったこともない多くのことを発見させてくれました。彼の言葉は、教義ではなく、ましてやそれまでに読んだことがあるような救世主やグル、典型的な哲学者や宗教などの退屈な話でもありません。クリシュナムルティの教えには、私からすると抵抗も否定もありませんでした。なぜなら彼の教えは、私の日常生活において、そして他者との内的な、あるいは外的な関わりにおいて、私が確かめることのできた純粋な事実であり、真実であると感じたからです。当然ながら、次の日本への旅では、日出ずる国を以前と同じ目で見ることはもはやできませんでした。
にもかかわらず、私は日本に永住することにしました。なぜなら大学卒業後、様々な出来事があり、合気道の創始者の元で学んだ先生とイタリアで偶然出会ったからです。その先生は日本人で、合気道の創始者が亡くなる年まで内弟子だったそうです。その先生と出会ったことがきっかけで、若いころからの夢が一つ叶って私は日本に住めることになりました。そして同時に、合気道の精神と奥義、真髄を学ぶこともできたのです。
合気道の師匠は技だけでなく、むしろ精神面を特に大事にしていました。彼と一緒に修行し、お供をしながら、クリシュナムルティが話していたこととの関係を見出しました。特に、心においてのスペース、完全な注意力、感受性、それから私たちと外的なスペースとの関係、コスモス、すなわち宇宙との関係を見つけました。自分が含まれているのは小宇宙であり、その小宇宙と宇宙の関係が合気道の真髄です。そのころ、コスモスというのは、ギリシャ語の起源をたどると、秩序という意味だということも知りました。
合気道への情熱と、この地で生きていきたいという熱望とは裏腹に、日本での様々な物事は簡単ではありませんでした。
一方、侍の誠と力は、その一方は、禅の先生の感受性か敏感さか知恵といういくつかのことは私にとっておもしろそうだったし、それから瞬間瞬間にやってる活動に対して、正確さと献身も面白そうだった。
侍の誠実さと強さは、禅の指導者の感受性や知恵と同様に大変興味深く、彼らがしている活動や、瞬間瞬間に身を捧げ、一瞬一瞬を正確に行っていく様も興味深く見えました。
この芸術の世界−日本は、一般的な物事のやり方も含めて、この惑星の他の場所とはまったく異なる社会的な秩序を持ち、インスピレーションと安全の源がいつもありました。ですから日本に対してはなんとなく特別な感じがありました。また一方では、地上の他の場所と同じように、日本は良い物事のエッセンスを失ってしまってもいます。
外的な秩序は不可欠であり、社会に幸福をもたらすことは事実です。そのような社会は、生きることが大変快適になります。日本では、完全な交通・通信・伝達システムは、正確さと、最小限の犯罪、そして表向きの秩序とともに機能します。仕事でも学校でもそうです。直接的な対立を避けるために、そして見せかけの社会的秩序を乱さないために、秩序立った尊重もあります。
その秩序は、日本の社会の場合は、お互いへの尊敬、そして教育からも成り立っています。このような要素は、日本の社会を世界的に見ても最も犯罪の少ない、安全な場所にし、快適な暮らしと、すべての物事が決められた、見せかけの穏やかさをもたらします。
秩序とは、時刻表どおりに電車が走るという意味だけでなく、具体的な物事のやり方における正確さ、つまり物理的な秩序のことです。その深い意味における秩序は、意識における秩序であり、それは内的にも外的にも対立がなく、調和のとれた状態です。
イラン、あるいはスペインのような社会においても、無秩序は表面に現れているので、おそらく人々はそれを敏感に察することができます。一方、北ヨーロッパの国々や日本においては、無秩序を敏感に察することが難しいのです。なぜなら外的なものすべてが明らかに上手く機能しているからです。
しかしそこに何年間も住んでいると、内的な無秩序と社会の心理的な無秩序に気づきます。
その無秩序は、どのように物事を行うか、集団の中で自らに課した道徳規範によって生まれるものです。そこに個人的な内省のスペース、つまり自分で考える力はあまり残されていません。
技術がその正しい場所を持つことをやめた社会では、さらに機械化された人間を生み出してしまいます。そのような人間は他者に対しても、環境に対しても、感受性に乏しくなります。たとえば過剰な労働や消費、仕事を得ることを目的とするような教育。その仕事は、消費の愉しみを生み出し、人々の心をずたずたに引き裂き、すさまじく擦り減らし、精神疾患や自殺の原因となり、心を小さく小さくして、脳にもっともっと損傷を与えるものです。
おそらく人々はそのように感じていません。なぜならこの技術を使うことが、私たちに変化と進化をしてきたことを感じさせ、たとえばビデオゲームの画面の前でもっと早く機敏に動けるように感じさせるからです。しかし実際には、脳は非常に機械化されていく方向に後退しているように見えます。恐ろしく古くなっているのです。深いところまで入っていって根本的なところを見ると、どこの社会においても、私たちは精神的にほとんど何も変わっていません。
もちろん身体的に安全であることは大切です。そして日本の社会がその安全性を保ち、暮らしを快適にしているのは間違いありません。しかしその身体的な安全は、精神的な領域において、内的な秩序を保証しません。日本での暮らしを通じて、そのことがよくわかりました。たとえば、一度通りに出てみると、自分の周囲に目を配っている人、リラックスした表情で微笑んでいる人はどんどん少なくなっています。周りのことに敏感になり、夕暮れを見て楽しんだり、鳥の声を聴いたりしている人、黄昏時に木々のてっぺんを撫でていくそよ風に耳をすませたり、友だちとの会話を楽しんだりしている人も少なくなっています。そのかわり、多くの人々がヘッドフォンやスマートフォンの捕虜になり、心を奪われています。不活発な乾いた社会は、自発性を失い、極度のストレスと、外からは見えない内的な緊張を含んでいます。そして新たな技術や社会的流行といった形でその穴を埋めようとしているのです。
このような主に思考に基づいた生き方には、感受性のための空間がほとんど残りません。それは機械的でロボットのような人間を量産します。彼らは自己中心的で、心から注意深く見たり聞いたりすることができません。自分自身で聞いて、見て、学ぶ芸術は、人生を理解するために重要な三つの要素と考えています。
この日本には、厳しい教義などを持つ組織化された宗教は多くありません。しかし今日では、何年もの間、企業や産業がその役割を引き受けています。そのため宗教は、代わりに企業や企業の規範、行動などになりました。それらは宗教の教義のようなものです。そしてその教義は、自分の特徴を持つ自由、自分自身で考える自由、全体的に自分の人生を理解するために自分自身を知る自由を奪います。それと同時に、本来の内的な規範を持つ自由も奪います。
武道、その「道」はスポーツにおいて極端な競争に取って代わられました。伝統的な芸術における「道」は、自分自身を理解し、調和をとるために一生学ぶものとして役に立つ道ですが、激しい競争や比較に変化してしまいました。「私はもっと良くなりたい」という気持ちは、スポーツの世界にだけ存在するのではなく、社会のどの領域にも息の詰まるようなストレスという形で永久の刻印を残します。たとえば教育、職場、産業、家庭、そして個人的な人間関係にさえそれは存在しています。
団体主義の力は、物事を外的な面では適切に機能させ、技術的な進歩は私たちの暮らしをより快適にしてくれます。それは事実です。しかし対価は非常に高くつきます。このことは世界中で起きています。人々は同じテレビを見て、同じ雑誌を読み、スマートフォンで同じ情報やニュースを読みます。小さな空間で同じ空気を吸い、特に東京のような大きな都市では、人々を平らに押しなべて、個性を持たせず、表面的にだけでなく本当に異なる気質を持つことができません。
他の社会と同じように、日本の社会の場合においても、そのような平べったい機械的な社会から抜け出すために、そして見せかけの自由を持ち、型をはみ出すために、個々人で想像の世界を創り出し、社会的トレンドにはまり、海外のファッションやスタイル、コンセプトを真似てみたり、あるいは日本の伝統的な文化からも表面的な部分だけ取り入れたりします。それは日常において、あるいは自分自身の中で、表面的な物事を変えているだけで、実体のない方法です。
私はこう感じることもあります。人々は、もしシステマティックな物事の繰り返しに基づく、社会的なマニュアルを取り除いてしまったら、道に迷うのではないかと。その結果人生は非常に機械的なものになり、同時に非常に虚しいものになるのです。この虚しさ、この不満足さは、一時的な娯楽や、しばしば表面的なもので埋めることができます。たとえば所属している団体とは違う、一人の人間であることを感じさせてくれるようなもので埋めることになります。
日本の社会では、教育は人々の型を創り上げます。そのような人々は、たとえば他者と同じようでありたいと思う人々、たとえば、いわゆるアイドルと呼ばれる芸術世界の中で、他者を真似ることに安全を求める人々です。そのような教育は、社会の中で人々が本当の関係を築くためには役に立ちません。本当の関係というのは、たとえばカメラや携帯電話などで写真を撮るといった行為で自然と関わるのではなく、自然と本当に関わり、そして、世界の人々と愛情のある関係を築くということです。本当の世界は、画面を通して見えるものではありません。ですから私がここ日本に住んでいる間、自分自身に継続して問いかけてきたことは、自然や世界の人々との本当の関係を築くために、教育が役に立たないとしたら、いったい教育にはどんな意味があり、教育はどのように用いられるべきなのか、ということです。
しかし、この精神的な無秩序の端っこに住み、多くの条件付けに抗して本当の変化を起こすことに関心を持たず、その必要性を感じないとしたら、日本はおそらくこの惑星で暮らすにはもっとも健全な場所の一つです。なぜなら少なくとも、先にお話したように、そこにはほとんど悪事のない身体的な安全があります。道路の安全も保たれ、子どもでも女性でも、だれでもいつでも、おびえることなく表に出て、通りを歩くことができます。人々は他者を尊重しています。そのような場所を世界の他の場所に見つけることは難しいでしょう。警察さえも協力的で、どんな場面においても丁重であることが多いです。基本的なニーズはすべて、あらゆる領域でカバーされています。
もちろん、日本で暮らしているうちに、時には非常に人間的な人々に出会うことがありました。彼らは真の情熱を持っていて、この社会の混乱や物事を変えたいと願っている人たちでした。ここ日本だけでなく、この小さな貝殻を出て、日本の外と内を行ったり来たりしながら物事を変えようとしている人々とも出会いました。また、私を信じ、無私無欲で助けてくれる人々や友達にも恵まれました。
日本では学校や会社だけでなく、体の不自由な人、障害を持った子どもや大人の支援に従事する施設で(そのような場所ではよくあることですが)、素晴らしい人々と出会い、そこで働く喜びも経験しました。彼らと共に私は多くのことを学びました。子どもからも大人からも学びました。本当に聞く方法を知っていて、真の謙虚さ、内なる謙虚さを持っていれば、多くのことを学ぶことができます。
私は日本で、現代における人生の最も素晴らしい教育者の一人である、金森俊朗先生と出会う幸運に恵まれました。彼は残念なことにこの世を去ってしまいましたが、大切な友人の一人です。
一方、日本に暮らしたことで良かったことは、47都道府県を車で旅しながら、しばしば友人たちと、素晴らしい自然に出会えたことです。それらは時に力強いエネルギーを持った楽園であり、時にうっとりするような光景でした。そのような旅を通じて、人口の少ない地域でその魅力を発見し、かつて何が日本をオーセンティックにしてきたのかを多少感じることもできました。
そのほか、私の人生でもっとも楽しかったのは、私の生徒である子どもたちと一緒にいられたことです。彼らはインスピレーションの源でもあり、何か物事が良くない方向に行っているときには、私の力になってくれることも多々ありました。人間関係の鏡を通じて、子どもたちから多くのことを学ぶことができます。彼らの純粋さ、柔軟さ、彼らが若さゆえに持つことのできる良さも悪さも通じて。
一対一で真摯に彼らと関わるのであれば、子どもたちは、あなたの心に隠れているものを引き出すことができます。しかも、彼らに全ての注意を払い、彼らの中心にふれることができれば、子どもたちがふだんはそのような言葉のない状態、つまり思考のない状態に繋がっていることがわかります。このことは、大人たちが何年もかけて多くの条件付けによって壊され、そのような状態に繋がれなくなっていることを理解し、それを感じる助けにもなります。このような意味において、私の心は子どもたちに対して自然と開かれ、人生を通じて多くのことを教わってきたのです。
私たちの不健全な影響にかかわらず、子どもたちはまだこの世界の宝であり続けています。この世界を変える唯一の方法は、彼らとの関係を通じて、断片化されていない人間の時代を生み出すような、教育における革命しかありえません。その革命によって、どんなマニュアルや本からも決めつけられず、人生と、住んでいる環境による直接的な関係によって、内的な規律と気質を持つ、新鮮なマインドが生まれることが可能になるでしょう。
教育、それから武道も含めた芸術は、私にとってずっと重要でした。なぜならそれは、自分自身をもっとよく見つめるだけではなく、全体的な人間として自分自身を完全に表現することができるからです。そして、人生すべてをまるごと洞察するために、自分の一番奥深いところ、脳の中、その細胞に変化を起こすからです。
このような理由から、これまで日本で教育に関わってきた日々を通して、教育(特に子どもたちへの教育)と芸術に接し、劇的な変化が必要であると考えるようになりました。
武道の稽古をしながら、そして日本の様々な学校で教えながら、人が自分のことよく知るための教育、そして自分自身を完全に表現することを助けるような教育にますます興味を持つようになりました。
それは、他人と競争して、あるいは良い仕事を得て、抑えの効かない消費主義を促進するような教育ではなく、人生を理解できるような感受性を持つ人、良い人間を生み出す教育です。
これは疑いようもなくこの日本の社会に欠けているものであり、世界中の国に起きていることの一例です。
ですから、このような教育に取り組むために、まず自分自身から始めなければならないと思いました。自分の脳に、それから自分の周りにも変化を起こすために、もう一度、一から自分を教育し直す必要がありました。それは、人生の全体性を見るための新たな生き方でした。
この教育に取り組むという決断は、この何年もの間消えることなく、常に私の心の中にありました。そのため、私はビザを変更したあと、様々な仕事をし、多くの困難を経験することになりました。特に組織の閉鎖的な本質によるお役所的な仕事を目の当たりにして(それらは海外から来た者に対してさらに強くなります)、最後の一歩を踏み出すことを決断しました。つまり、それまで私が持っていたスペインとイランの国籍から離脱するということでした。
これは難しい挑戦でした。家族だけでなく、友人や 弁護士にも無理と言われました。しかし私はどうしても諦めることができませんでした。 そしてついに、帰化を成し遂げることができたのです。法務省や入国管理局とのやりとり、書類に追われる日々でした。どこの窓口に行っても、英語は通じませんでした。公的な文書やハガキが送られてきても、私には難しい日本語ばかり。そのころの私にはとても帰化の手続きをやり通せるとは思えないほどでした。そのとき思ったのは、日本は大事な情報に簡単にはアクセスしにくいシステムになっているのではないか、ということです。それを考えるきっかけとなったのは、2020年の東京オリンピックが決まったときです。オリンピックに来る外国人はウェルカムな体制なのに、住んでいる外国人に対してのケアが整っていないと感じました。十年以上に渡る帰化の手続きの間、担当してくださった方たちにビザと帰化に関する十分な知識は残念ながらありませんでした。ビザと比べると、帰化申請はその複雑さにおいて、まるで違う次元の話でした。しかし私はスペインとイランの二つの国籍を離脱し、日本に帰化しました。これは奇跡ともいえる出来事でした。
最初の申請から十二年後、私はようやく日本国籍を取得しました。私は子どもの頃から、どこかの国に所属したいという気持ちはまったくありませんでした。ですから、日本の国籍が欲しかったという理由から帰化したのではなく、ただ、日本で私がやりたかったことをやるためには、その方法が一番適しているのではないかと思いました。
コントロール不能のストレスに何度も苦しみ、誰もいないところで何度も一人で泣きました。何度も肉体的な限界と、特に精神的な限界を経験し、ついに新しい扉開くことができました。あるいは、ずっとそこにあったものを見つけることができたのかもしれません。国籍を取得して泣いてしまったのは、新しいパスポートを手に入れたからではなく、それまでのすべての苦労を通して、自分自身の中に内的な革命を始めたからです。
ちょうどその頃、合気道の聖地と言われる場所で、十年以上の月日を合気道の師匠と共に過ごしていました。そこは福島からもそう遠く離れていない地域で、2011年に東日本大地震を経験しました。原子力発電所から漏れ漂う放射線と、いつまでも続く余震。私は新しいページをめくることが重要なのではないかと判断しました。2018年、私は北海道に移り住みました。現在私は北海道で合気道をしたい人が集まる場所として新たに道場をつくり、その運営管理をしながら、保育園と発達障害児に関わる仕事にも取り組んでいます。
道場の名前は私の名前と同じで日向という名前にしました。文字通り、太陽に向かうという意味であります。古事記や日本書紀によると、宮崎県の日向は、大和の国をおさめるために神武天皇が旅立ったという、日本統一はじまりの地です。帰化に向けて名前を考えていたとき、私はこの日向という土地の名前に強く惹かれました。
子どもの純粋さ、そして燃える太陽のような力とともに、私たちはみんな一緒に最も大事な革命を、なくてはならない革命を起こすことを願っています。
そのために、教育と芸術は基本となるツールです。そのツールを使って、私が今いるこの場所から新たに始めたいと思います。新たな始まり、新たな夜明けです。
私たちの心に、日が昇るような炎を再び燃やしましょう!心は、太陽の炎のようにいつも燃えているべきだ!
これは特定の国に対しての批判ではないです。ただ、もし自分自身を日本人、イラン人またはスペイン人と感じて、またはどこかの国や国籍に執着するのであれば、この入門編を読んで気分を害する人がいるかもしれません。ところが、もしその条件付けを脇に置いて、心から注意深く聞くことができたら、何か価値のあるものを引き出していただけるかもしれません。この本を手にとってくださった皆様に感謝いたします。本当にありがとうございます!
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